里美村の歴史と伝説

茨城民俗学会代表理事 藤田  稔

 里美村は自然の美Lい村です。大自然の恵み豊かな村ですから、歴史も古いのです。七世紀ごろの里美に大豪族のいたことを、大中にある小森明神古墳が実証しています。
 平安時代になると、奥州への道は海道に代わって久慈郡をとおる山道に切りかえられ、里美地方は交通の要衝となりました。そのため、中央の文化が早くから伝わっていたと考えられます。
 中世の常陸北部は佐竹氏の時代です。ところが十五世紀(室町時代)に、佐竹家中に争乱がおこり、その間に奥州勢が侵入し、十六世紀の里美地方は岩城領とされました。里川の河岸段丘縁辺や山頂の要害に築かれた、小里城跡、行右城跡、上の台館跡、館の台館跡、大中館跡、十殿坂館跡などによって当時をしのぶことができます。
近世の初めに、岩城氏は改易、佐竹氏は秋田転封となり、里美地方は水戸藩領となったのです。
 水戸藩の寛永検地により、里美地方には荒町、小妻、小中、大中、折橋、小菅、大菅、河原野、下幡、細田、坂野上の十一村が確立しました。山同地域の開発も進み、岡見新田、里川新田、根小屋新田、上田代新田、笠石新田などの新しい集落が生まれました。
 里川に沿って縦貫する棚倉街道は、常陸と奥州を結ぶ重要な街道でした。「小里通り」とも呼ばれ、里美地域の河原野、折橋、大中、小中、小妻、徳田が宿場となり、旅人の便に供されたのです。奥州諸大名が、参勤交代や国替えのとき、この街道を利用することもしばしばでした。米やその他の物資の輸送路としても、大きな役割を果たしました。
 こうした歴史的環境にあったことから、新しい文化に接触する機会が多く、著名な文人・学者も来遊し、庶民教育もまた盛んでした。幕末に、豊田天功のような優れた学者があらわれたのも、偶然ではなかったのです。
 水戸藩では、天保期から安政年間にかけて十五の郷校を設立しまLた。小菅郷校はそのーつで、里美地方の子弟の教育にあたり、地域文化を大きく高めたのです。
 近代を迎え、小里村と賀美村が生まれ、昭和三十一年に両村が合併し、里美村が誕生しました。
新しい村づくりとして、藷産業を育成する各種の施策が次々と施され、文化活動も盛んな、活気あふれる村となっています。
 里美村には多くの伝説や昔話があります。伝説は特定の人や物について語られ、時代もある程度明らかで、事実と信じる者もあって語り伝えられたものです。ふるさとの人や物や地名にかかわる話なので、人々の関心も高く、郷土愛を育んできました。
この本には三十七話のっていますが、そのほとんどが伝説です。伝説の分類も種々ありますが、一、自然的伝説、二、歴史的・社会的伝説、三、人物伝説、四、信仰的伝説の四つに分類することもできます。里美村の伝説をこの分類で見てみますと、「鍋足の天狗と七つ滝」や「苗平のお溜池」をはじめ、山や石、滝、キツネなどの自然とかかわる話が多いのです。「小里城」や「草刈山の凶作塚」などの歴史的・社会的伝説、「鉄砲はづやん」「大男の吾介さん」など特徴をもつ人物の伝説、「おしゃべり地蔵」や「坂の上のお稲荷さん」のような信仰的伝説などとなります。
 昔話は、「むかし、むかし、あるところに」と始まるように、特定の時代も物もありません。話す者も聞く者も実際にあった話とは思いませんが、人間の真実が流れているため、人々の心を打つものが多く、同じ話が広い地域で語り伝えられました。この本にのっている「しびと転ばし」の話の中心は、全国的に分布する「灰の縄」の昔話ですが、特定の地名と結びついて伝説化しています。「セミになった木挽き」も、興味深い昔話です。
 この他、「殿様が通った日」は、実際にあった昔の話で、前記の分類には入りませんが、村の昔を語るほほえましい話です。
 村内には、この倍くらいの伝説や昔話があるとのことですから、いかに心の豊かな村であったかが分かります。こうした話は、語り伝えられる中で人々の郷土愛を培ってきたのです。
 この本は、村に住んでおられる方々によって、地域別に執筆されたということが特色です。人々の心をより豊かに、そして「いきいきとした村づくり」のために、ふるさと里美の伝説や昔話を大切にしようではありませんか。

平成六年三月